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8th May 2000 **

チロはずいぶん変わりました。ほとんどの歯がなくなっていました。病気で抜いちゃったのです。歯茎だけではむはむご飯を食べるチロはちょっとこっけいでした。口の端からお水もご飯ももれてきてしまいます。目が悪くなってしまって輝く特大黒ビーズのようだった瞳は薄青白い膜に覆われています。耳も遠くなって、チロの世界にはもうおとうさんとおかあさんとじぶんしかいないようでした。こちらを見ても、すぐに興味をうしなってどこかにいってしまいます。柴犬の血をついで、くりんと巻き上がっていたふさふさのしっぽも、毛並みは美しいままですがたれさがっています。

何にもしっぽを振らず、笑顔も見せません。下を向いて、一日に何十回もテーブルの周りを回りつづけます。チロはながいながい、よく見えない道の上をいっしょうけんめい歩いているのかな。チロがわたしをわすれても、ずっとすきだよ。

March 14th 2001

封筒を引き出しから取り出す。まず裏返して、自分の住所と名前を書く。それから表にふたたび返して、住所と宛名を書く。母の名前。彼女の名前を書くことなんて、公的書類を書くとき以来だ。

手紙をなんと書こうか思案する。挨拶を書いて 自分は元気だと書いて(いや 元気じゃないな 生まれた時から健康ではないのだから でも元気の定義ってなんだろう 悩み事がないのだから精神的には健やかで それは元気ってことだな よし「わたしは元気です」にしよう) 近況を書いて(仕事が4つへって2つ増えました・・・と これじゃだめか 経済的に困っているみたいだ 余計な心配をかけてしまう しかし月収を書くのも味気ないなあ)

ここで手が止まってしまう。仲直りしたいと思って書き始めた母への手紙の2枚目を、わたしはこの1週間ばかり書いては丸めてごみ箱へ放るという動作を繰り返している。何枚の「2枚目」がくしゃくしゃにされて捨てられたかわからない。けんかの原因を見つめなおそうか。余計けんかになるな。あやまろうか。悪くない点をあやまるのはいやだな。かといって彼女の悪い点をあげつらうのもいやだな。わたしの母は彼女一人で できればなかよくしたい。じゃあ 死ぬまでけんかを「なかったこと」に?ともだちが言ってたけど親子げんかってそこまで深刻なものじゃないって言うしな。じゃあ 深刻に考えすぎているわたしが問題あるのか。「親子げんかでむきになりすぎていたわたしたちの考え方に問題が」これじゃ家族あての手紙じゃないな あー もー

などとぐだぐだ考え書いているところに当の母から電話があった。固まるわたし。妙にギクシャクした話し振りの母。「た 誕生日のプレゼント何がいい?」「ま まだ早いよ いらねよ」「そんでも 何がいい」「いいい いらねよ・・・」「もらえよ」「いらねえよ」←まだ品物決まってませんが

その20分後 チロの話になったら やっと二人とも気分がやわらいで 幾分普通に話ができた。ありがとうチロ。君は17年経った今 ボケボケにボケていてもな おありがたい存在だ。

はー疲れた。はー参った。こんなに緊張した電話は久しぶりだった。暖かくなったら帰省して 彼女といろいろ話そう。その前にやっぱり 手紙を送らないと。2枚目をどうしよう。さーて どうしよう。今日と明日でがんばってみようか。  

March 26th 2001

親子げんかは予想もつかなかった形で決着を迎えそうです。チロが危篤になりました。もう意地なんて張り合ってる暇ないってこと。2度しか涙を流すところを見たことがない母だけれど、今チロを失いそうになってワアワア泣いている。これをどうしろと。もうけんかのことなんてどうでもいいです。助けなければ。

March 24th 2001

3月21日 チロは 17年8ヶ月の生涯を終えました。

March 25th 2001

草木が伸びやかに育ったのち、いつか静かに枯れるように ふと気づいたら眠るように老衰を迎えてくれると思い込んでいました。でも最後の時を決定したのは自然な衰えではなくて 脳内出血でした。犬も人間と同じ臓器が備わっているのだから 同じ症状で死にいたることもあるのです。まして高齢ともなれば。

チロは高齢にもかかわらず 3日間脳出血による症状と 驚くべき生命力で戦い抜きました。そして そのがんばりは同じ3日間死ぬほどの苦しみを母にも与えました。口から栄養が取れないのだから、点滴が命をつなぐ唯一の手段でした。もう治療ではなく 単なる生命の維持。たった1本のチューブをはずせばチロは死にます。そしてそのチューブに頼って、泣いてすがっても続く命は1週間もありません。

チロは何を望むだろうか。見えない目をかっと開き、わなわなと震えるチロの体にすがり 手(前足ですが わたしたちはずっと手と呼んでいました)を握った時 わたしはこの18年近くも「きょうだい」として暮らしてきたものの望みがはっきりとわかりました。「おうちに 帰りたい」と。

思い込みかもしれません。妄想でもかまいません。これほどはっきりした思い込みが存在するなら、わたしはそれを真実として認めたいのです。チロは病院で苦しいまま一人っきりにされるのはもういやで、家族のいる家に帰ってふとんでゆっくり寝たいと言いました。だからわたしたちは彼の望むままにしたのです。苦しいこと 痛いことなんか終わりにして、みんなでいままで通り楽しく暮らすために。

小さな一本の注射はたちまちチロを苦しみから解放しました。 父と母とわたしは安らかな表情のチロを抱いておいおい泣きながら車で家に帰りました。いいことをしたはずなのに 涙が止まらない。  

 

March 24th 2001

チロのこと 迷ったけど書いて残そうと思いました。わたしができる方法で できる限りのことをしたい。忘れてないよ 忘れないよっていういまの気持ちを記しておきたい。そして ここに書くのは最初にサイトを作った目的のため。なぜか親しいともだちはどんどん岩手を離れ、東北を離れ、日本を離れ、ひどい奴になるとこの世を離れていってしまった。そう言ったハクジョーな でも大好きな連中に向けて 俺いぎでるじゃー なんぼかよく暮らしてるじゃー(訳:わたしは生きてる 何とかうまく暮らしてる)って伝えたいから。

あんたたちさ だいたい 見てんのこれ。あんなに小さかったチロさ 大人になって おじいちゃんになって とうとう 天国のメンバーになっちゃったんだヨ。会員制だよ。困った人たちだよ 5年も6年も10年も 手紙だけ思い出したように送ってよこして 会いにも来ないで・・・・・・ げんきでくらしてよ。

母とは なんか仲直りしちゃいました。毎日電話をかけてお互いにしくしくいたむ心臓を気遣いあったりしています。まだ理解できない点はあります。すべてを許し 妥協だけしてやっていくつもりはどちらにもありません。だけど それはまた今度。またあとで。気に入らない点 分かり合えないところがあっても、それよりまず わたしたちはこの世にお互いひとりずつしかいない家族です。母が生きてる。娘が生きてる。そのことに感謝しようかな。一緒に泣いてる。だったら一緒に励ましあってがんばろうかな。

チロ アンタけんかの仲裁にかけては かなりやるよね。昔からそうだった。ありがとう。エライよ。感心しちゃうよ。

 

March 28th 2001

悲しくて悲しくて 眠れなくなったあの日から わたしは見事に昼型の生活にシフトし、12時間寝ても寝たりなかった睡眠時間はコンパクトに7時間に短縮されました。チロ やるな。生活習慣まで直してくれてありがとう。君には頭が上がらない。と言うわけで本日もすっきりと10時起床。(寝たのは3時半)信じられない。

母はお骨になったチロをテレビの上において、「一緒にテレビ見る」とどこか楽しそうに語ります。地に伏して、あんなに嘆いていた彼女の心も、チロが不変の姿になったいまではだいぶ踏ん切りがついて落ち着いたようです。一緒にいると安心なんだって。お骨になって、銀糸の刺繍が施された巾着に入ったチロは、一度死んで冷たくなったはずなのに抱くとほのかにあたたかいのです。このお骨の不思議なあたたかさには家族全員がなぐさめられました。気のせいかな。でもあったかいんだ。だっこするとじわーっとあったかいんだ。

来月また会いに行きます。

 

March 30th 2001

チロの話はこれで終わります。 「死んだ」と言う字を使いたくありませんでした。でも チロは死んじゃったんだね。長い長い犬さんの一生を終えたんだね。わたしたちは 思い出して泣いたり 励ましあって気を取り直したりしながら、定められた時が来るまで生きつづけます。一緒にいたいけれど、時間はとめられないし 立ち止まることはできない。

母はずいぶん変わりました。と いうより わたしの母を見る目が大きく変わりました。母をこれほど 一人の人間としてじっくり見たことはなかったような気がします。いつも彼女には「奥さん」「お母さん」と言う代名詞ばかりがついていました。世の奥さんって そうやって家庭に埋もれ、子供の陰に隠れた存在になってしまうのでしょう。母は比較的個性的な人物ですが、それでも 〜〜さんの奥さん、お母さんというレッテルから逸脱することはありませんでした。わたしも彼女は「わたしのお母さん」であり「わたしの」「お母さん」であることこそが大事だと思い込んでいました。わたしあってのお母さん、のようなこういった考えは 彼女自身の人格を見つめていません。 だからこそ 二人の考えが違う時 わたしは「それはわたしのお母さんらしくない」と子供っぽい反発をもって 余計腹が立ったのかもしれません。  

母にとってチロがいかに大切な存在かわかりました。母がこんなに苦しんで嘆いていたのを見たことがありません。祖母がなくなったときも、母は「覚悟はできていた」と冷静でした。子供として愛されるのが当然であった自分の母親より、自ら望んで与える愛があったチロは何よりも大切な存在だったのでしょう。

チロはわたしたち母子の双方の救いでした。わたしは離婚し、その後勝手に家を出たことで両親には申し訳ない思いでいました。かといって父に頼まなければ出かけられないような山奥に、これから先ずっとこもっている気にはなれなかったのです。最低でも、バスや電車を使って自分で動ける程度の場所で、仕事を持って、一人でやってみたいと思いました。何でも自分で決めて、やりたいようにしたいという気持ちでいっぱいになってしまいました。母は許してくれましたが ずいぶん悲しみました。寂しいぶんの愛情をいっそうチロに注ぎました。わたしもそれでいいと思いました。むしろチロには感謝していました。彼がいてくれたおかげで、母とわたしは比較的いい関係を保ち続けていられました。帰省するたび わたしはチロに「チロ お母さんをたのむねえ」と話したものです。知能に差があるのだから 言葉のすべてがわかるわけではありませんが、チロはとりあえずわたしたちのいうことはいつもまじめに聞き、最後に エヘッ と笑ってくれました。(チロは人間の笑い顔を真似て嬉しい時には「笑顔」を作って応対する癖がついていました)

布団に寝ずにそばについて看病し続け 寝返りを打たせてやり やわらかく栄養のある食事を工夫して与え、不安がって鳴く時には背をなでてやっていました。すべての時間をなげうってかわいがり健康を気遣っていたチロが倒れ、突然死に瀕した。その一番苦しい時に 何もしてやれない無力さに母は絶望しました。3日3晩、チロが入院していると同じ時期だけ母も眠らず ただ涙を流して苦しみました。わたしは 彼女がいつ「かわってやりたい」と言い出すかと恐れました。

20日に こらえきれなくなった母からの電話があって、急いで実家に戻るとそこにはうつむいて押し黙った父、文字通り身もだえして泣く母、そして空っぽのチロの布団がありました。年より10も若く見えるのが当たり前で、それが自慢であったはずなのに、彼女の目は涙でつぶれはれ上がり、顔には今までなかったはずの 亀甲のような奇妙なしわがきざまれていました。父はやたら大きな音で面白くもないテレビ番組を見ていました。晩酌の刺身は口に運んでもらえず おしょうゆに浸ってだらだらになっていました。父もこんなにしわがあったろうか 白髪があったろうか。時間が休息に過ぎさり、何もかもが枯れ果てるのを その時目の前で見せられているような気がしました。  

3日サイクルで気持ちが変わっていきます。2日「あ もう涙でねえや 案外ドライなもんだな 自分 ずぶといなー 冷たいなー」と思っておきながら、3日目にはあの あれ?と問いかけてくるようにぽかんと口を開けて きょとんとこちらを見ている最後の 魂の抜けたあとのチロの顔を思い出して 胸が苦しくなります。もう エヘッ と笑う顔も見られません。 最後の表情が思い出されるたびに心臓じゃなくて こころの 自分の魂の入っている部分が苦しい。

時間が経てば だんだん薄れていくのかな。それは忘れることじゃないって 聞いた。そうなのかな。そうだといいな。 つらい苦しい思い出だけ抜けて いいものだけ 楽しいものだけが残る。そんな都合のいい思い出を編集して こころに持っていていいんだろうか。許されるんだろうか。

 

May 22nd 2001

アルバイトを終えて 暗くなってから家路に着く。普段の運動不足がたたって、毎度毎度足も腰も背も肩も、すべてが疲れてだるい。やっと家に着いて、どうせばたりと倒れ込むのだからとあらかじめしいておいた布団(万年床とも言う)に寝そべり、布団を頭までかぶってじっと考える。

チロはどこにいったんだろう。彼はどうなったんだろう。

30年生きてきて、何人かの親しいものの死に直面した。悲しかった。辛かった。彼らが死んで魂はもうこの世になく、体も抜け殻となっていずれ腐ってしまうので、焼いて供養しなければならないという事実を受け入れるのはやさしいことではなかった。時がたって悲しみは薄らぎ、わたしは涙を流さなくても彼らのことを思い出せるようになった。やさしかった祖父、祖母。かけがえのない唯一無二の存在として愛した友人。最期の安らかな顔、この苦しみは何、と問いかけるような顔、顔すら もはや なかったあいつ。どんな表情を最後に見せてくれようが、どれも喪失の辛さに代わりはなかった。でも 思い出すたびに、彼らはすっかり死んで消えてなくなってしまったのではなくて、どこかに生きた証として、生きている者の知らない形で存在しているとなんとなく感じ、そのなんとなくを信じ、心の慰めとすることができた。 その温かみのようなもの、これが「たましいをかんじる」と言うことなのだろうと思っていた。

だけどチロにはそれがなかった。わたしがそれを感じることができなかったのだ。チロの生きていたころのことをどんなに思い出しても、ただ悲しくなるばかりで他の感覚は全く得られなかった。それはわたしにとってチロの魂の所在を感じられないということで それを実感することも それに納得することもとても怖かった。わたしはチロと親しい関係じゃなかったのだろうか と思ったり ひどい時になると ひょっとして人間は魂ありで犬はないなんて 実はわたしの生きているのはそんな世の中だったらどうしよう と考えたりした。たぶん生きている限り そして死んだら死んだで答えのわかりっこないこんなことをあれこれと予想して暮らしていた。

今日も答えを見つけられないまま かぶっていた布団を脱いだ。正面の白い壁にチロの写真が留めつけられている。大人になったばかりで、まだ少し幼さの残った とても若いころのチロだ。珍しく外につながれていて、足元にはおもちゃが転がっている。日差しの強い夏で、カメラを向けるとこちらを向いてエヘッ といつものように笑った。 そのチロがわたしを見下ろしていた。疲れて布団に横になって、いじけているわたしを見下ろして エヘッ と笑っていた。留めていた写真の上がはがれて、少し前のめりに倒れ込むようにめくれた写真のチロの目は、ちょうど寝ていたわたしの目線とぴったりあった。わたしが具合が悪くて寝込んでいたときに、そっとのぞきに来て黙って帰っていくときのあの顔によく似ていた。

写真がめくれるのなんてよくあること。褪せた写真がめくれてしまうのも些細なこと。でもわたしはそういった ちょっとしたことから、ずっと探していた一つの答えを得たような気がした。チロは死んでしまったけれど、この世のどこかに確かに生きた証を残していて、タイミングが合えばわたしの前にそれを示してくれるのだと。わたしや、わたしの家族はチロを完全に失ったわけではなく、わたしたちの望むような形ではないにせよ、「たましい」のようなものはどこかにある(のかもしれない) と。

わたしは立ち上がり、顔を覗き込んで案じてくれたチロの写真を元通りまっすぐに貼りなおした。それからちょっと チロと向かい合ってこころの中で語りかけ、 久しぶりにめそめそ泣いた。それから、時計を見たらもう10時だったのでいつも通りにEQにログインし、Temple of Veeshanに行って仲間とドラゴン狩りをして寝た。

愛するものたちの死をまたいで 生ある限りわたしの日常は続く。

 

September 20th 2004

いまでもまだ 迷う。 母とわたしは彼を殺してしまったのか。 自分で書いた「いいことをしたはずなのに」 のくだりに激しい怒りを感じることがある。

わたしは 一介の弱い人間で、魂を感じない。霊を見ない。見えないものの存在を知覚できず声を聞かない。時にそういうものを感じるが、自分の誤認であるという疑いをぬぐえない。だから自分で答えを見つけなければならないが、その答えに決して納得できない。

 

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